さらば、銀座の都電

昭和の特別な一日

昭和の特別な一日

杉山隆男「昭和の特別な一日」を読んでいる。第2章が「さらば、銀座の都電」で、銀座中央通を走っていた都電の1系統などが廃止された「一日」、1967(昭和42)年12月9日(土)について書いている。
原信太郎氏が紹介されている。当時大手企業の役員*1だった原氏は「社員が通常通りの業務をこなしている」午前中、「錦糸堀にあった都電の車庫で過ごしていた」。帰りがけに「都電の前進や後進などの操作を行う、コントローラーと呼ばれる装置を、記念にと職員を拝み倒し、運転台から外して、ちゃっかりもらっている」。
夜には「十六ミリのムービー・カメラを手に、最後の都電が走るその瞬間までいよいよ残り三時間を切った銀座四丁目にあらわれ」た。和光ビルの屋上に上がらせろと守衛に交渉し断られると、親友である服部時計店のオーナーに電話する。専務があらわれ、四丁目交差点が見渡せる時計台に案内され、「端を固定したロープを命綱代わりに体に縛り続けると、転落するのではと不安そうな顔で見守っている専務を尻目に半身を外に乗り出し、カメラを回しはじめた」という。今年の夏、横浜にオープンする原鉄道模型博物館の原信太郎氏にこんなエピソードがあるとは知らなかった。
文中の誤りを指摘しておく。都電の廃止をもたらした地下鉄を象徴する都営浅草線営団日比谷線を紹介する中で、

客足の遠のく都電を見限って都が地下鉄に乗り換える。都電の行く末をこれ以上露骨にあらわしているものはなかった。
一方で、地下鉄の新参者、都が開業した都営浅草線に真っ向勝負を挑むようにして営団が登場させた日比谷線は、実は地下鉄の歴史をそれ以前とそれ以後に大きく塗り替えてしまうターニングポイントとしての意味を担う線でもあった。

と、1962年5月31日開始された日比谷線東武伊勢崎線との相互乗り入れによって、「地下鉄がはじめて地上を走る別の鉄道とつながった」と書く。しかし第一号は周知のように都営浅草線で、1960年12月4日に押上・浅草橋間の開業時に京成との相互乗り入れを開始している。少し調べればわかることで、わかっていれば、この辺の叙述は大きく変わっていただろう。
雑誌に連載されたとき*2から今まで、著者も編集者も気がつかなかったというのは、怠慢といわざるを得ない。日本鉄道旅行地図帳の新潮社なのに。

*1:記されていないがコクヨ

*2:新潮45』2010年2月号〜2011年8月号に連載

関西私鉄の運賃制度

関西私鉄の金額式回数券のルーツを調べるために、国会図書館で各社の社史を閲覧してきた。関西私鉄大手五社はいずれも創業100年を迎え、次のとおり百年史を刊行している。

事業者 設立年 開業年 社史 刊行年
南海電気鉄道 1884(大阪堺間鉄道 1885(阪堺鉄道) 南海電気鉄道百年史 1985
阪神電気鉄道 1899(摂津電気鉄道) 1905 阪神電気鉄道百年史 2005
阪急電鉄1907(箕面有馬電気軌道)1910(箕面有馬電気軌道) 百年のあゆみ 2008
京阪電気鉄道 1906 1910 京阪百年のあゆみ 2011
近畿日本鉄道 1910(奈良軌道) 1914(大阪電気軌道) 近畿日本鉄道100年のあゆみ 2011

このうち国会図書館で閲覧できたのは、阪神、京阪、近鉄の百年史である。阪急は「75年のあゆみ」、南海はその後の10年を扱った「南海二世紀にはいって十年の歩み」しか所蔵されていない。
「京阪百年のあゆみ」は、A4版、「通史・テーマ史」と「資料編」の2分冊で1,000 ページを超え、閲覧した中で最大のボリュームを有する。旅客営業制度の歴史についても最も詳細に記述されており、資料編には1910年の天満橋・五条間の開業から、2008年の中之島線開業までの旅客運賃の変遷が掲載されている。索引と年表も充実している。
金額式回数券のルーツに関する記述は、各社の社史から発見できなかった。京阪のオフピーク、サンキュー券の発売は1995年9月で、その画像が掲載されていたが、すでに金額式になっていた。Tatsumi さんのコメントの近鉄のカード式回数券「パールカード11」の発売は、「近畿日本鉄道100年のあゆみ」によると1985年10月だが、そのころ変更になったのかもしれない。
一方、阪神、京阪、近鉄とも開業時は区間制運賃を採用し、1974年7月、対キロ区間制運賃に変更したことが判明した*1
近鉄の運賃制度は、次のように変化していて興味深い。1914年4月の上本町・奈良間開業時は

開業時の大軌では、起終点を含めて13駅を設置した。運賃は全線を6区に分けた「区間制」とし、1区の運賃を5銭とした。区界をまたぐごとに5銭ずつ加算されるもので、6区の上本町・奈良間は30銭であった。乗車券には、普通乗車券、回数乗車券、定期乗車券、団体乗車券および1車貸切券の5種類を設けた。

と開業時から回数券が存在していた。区間の分割駅は、深江、若江、石切、富雄、西大寺である。同年11月には、上本町・鶴橋間に3銭の特定運賃を設定している。1942年4月の運賃改定で対キロ制運賃とした。

運賃制度については、大軌・参急とも多くは被統合会社の運賃体系を引き継いできたため、路線ごとに体系が異なるという弊害があった。さらに大軌の場合、対キロ制を適用する地方鉄道区間に対し、軌道区間では区間制を採用していたことが問題を複雑化させていた。(中略)
改定後の運賃制度は、上本町・今里間など特定運賃を設定した4区間鋼索線を除き、全線「対キロ制」で統一した。基本賃率は135kmまでが1kmあたり2銭、135km超が同1銭であった。これは、国鉄の150kmまでは同2銭、150km超同1銭と比べて割安で、また2〜4kmの短距離区間国鉄よりも定期運賃を低水準に設定し、工員定期を新たに設定するなど、利用目的に応じた運賃体系となった。そのほか、国鉄との関係では、名古屋、桑名、四日市、津、松阪、宇治山田の6都市間で、普通回数券と定期券について、国鉄または関急のいずれにも乗車できる制度を適用した。

以降、1951年11月に「一部の区間において区間制旅客運賃を適用」し、1962年11月「全線において区間制旅客運賃を適用」、1966年1月「一部の区間において対キロ制旅客運賃」に戻し、1974年7月「大半の区間において対キロ区間制旅客運賃を適用」に至る。
日本の鉄道旅客運賃制度は、京浜間の区間制、阪神間の距離比例制(当時は対マイル制)で始まったが、国鉄においては対キロ制に統一された。近鉄の運賃制度の変遷に見られるように、私鉄は、軌道の区間制、鉄道の対キロ制を折衷した対キロ区間制を採用したことがわかる。

*1:京阪大津線は、95年9月

日本鉄道旅行歴史地図帳

大ヒットした新潮社の「日本鉄道旅行地図帳」の後継シリーズ、「日本鉄道旅行歴史地図帳」が5月スタートした。前シリーズは路線及び駅の変遷データが充実していたが、新シリーズは「”地図になった”列車の過去と現在」というキャッチフレーズで、列車の変遷データの資料的価値が高い。

ところで、デスクトップ鉄のデータルームのネットからシャトルは、鉄道旅客輸送の質的変化をネット型輸送からシャトル型輸送への変化として捉えたものだが、ネット型列車設定の例として、分割併結を繰り返す列車を取り上げている。図4に最盛期の1968年10月1日(よん・さん・とう)の急行「みちのく」の系統図を示し、次のように解説している。


「みちのく」は、小牛田で鳴子行を分割し二階建てになり、花巻で宮古行を分割する。宮古行には盛岡発の「はやちね2」が釜石まで併結される。一方東北線を北上する弘前行は、盛岡で秋田行の急行「陸中」を併結し、再び二階建てになる。好摩から花輪線に入り、大館で「陸中」を分割し、単独で弘前に到着する。秋田行「陸中」には青森発の「むつ」が併結される。「みちのく」にからむ各列車の分割・併結も図に見るように複雑である。

日本鉄道旅行歴史地図帳 2号―全線全駅全優等列車 東北 (新潮「旅」ムック)新シリーズ第2号「東北」は表紙に「複雑怪奇!東北の多層建て列車」とあり、多層建て列車が大きなトピックとなっている。24ページには、「ネットからシャトルへ」とまったく同じ68年10月の「みちのく」の分割併合系統図が掲載されており、その解説も次の通りよく似ている。

上野発の「みちのく」は、鳴子・宮古弘前というなんの関連性もない3つの行き先をもつ列車。「陸中」は仙台を3階建てで出発、花巻から単独で三陸海岸をまわって、盛岡で「みちのく」と合流。花輪線で大館に出ると、「みちのく」は単独で弘前に向かうが、「陸中」は青森から来た「むつ」と仲良く秋田に向かう。

「ネットからシャトルへ」は、2003年6月のリリース時から「みちのく」について書いているが、このような概念図や解説には、著作権は主張できないものだろか。

井上ひさし氏逝去

井上ひさしさんが亡くなった。なぜデスクトップ鉄が井上ひさしなんだという疑問に答えて、鉄道の話題につなげてみよう。
小説「吉里吉里人」は上野発の夜行急行「十和田3号」に乗車していた作家と編集者が一ノ関の手前で、吉里吉里国の独立騒動に巻き込まれるところから始まる。「下駄の上の卵」は山形県置賜郡小松町の野球少年5人組が軟式ボールを求めて米沢から夜行列車に乗って上野に行く話だった。
もうひとつ。「下駄の上の卵」の舞台にもなっている小松町は、井上ひさしの故郷(現川西町)。その中心駅羽前小松駅は、宮脇俊三氏が「時刻表昭和史」で書いている終戦の放送を聴いた今泉駅から米坂線で米沢方向に二つ目の駅。そのとき彼らは、10キロも離れていないところにいたのだ。
謹んで、哀悼の意を表したい。

宮脇俊三@日本の偉人フェア

神保町の三省堂書店本店1階に「難局を打破した偉大な先人に学ぶ 日本の偉人フェア」というコーナーができている。歴史、文学、政治・経済、思想・哲学、音楽・芸術、科学・医学、スポーツの各分野で41名、40組(長嶋茂雄王貞治が1組)が取り上げられ、それぞれの偉人に関連する書籍4−7冊が展示されている。
「presented by 新書ガールズ」と掲示されているので、新書売り場の女性社員が企画したものと思われるが、その人選はかなりユニークである。スポーツの浅田真央は偉大かもしれないが、先人ではないだろう。歴史に聖徳太子徳川家康と並んで、手塚治虫。そしてなぜか科学・医学にわれらが宮脇俊三氏が名を連ねている。展示されている宮脇さんの関連本は、


ポップの顔写真は宮脇さんではない。誰だろうとずっと気になっていたが、昨日の工房Nishiさんのコメントを読んでやっと思い当たった。北杜夫である。見慣れた青年時代の写真と違っていたので、気がつかなかった。「どくとるマンボウ航海記」をベストセラーにした編集者の宮脇氏のとなりに住み、酒を飲みに行き来していた仲である。宮脇さんの写真は、平積みされている「別冊太陽」の表紙に大きく出ているのに、どうしてこんな取り違いが起きたのだろう。

幻の北海道殖民軌道を訪ねる

ISBN:9784330073095
内田百輭阿川弘之宮脇俊三と三代続いた鉄道紀行作家は、宮脇氏亡き後途絶えてしまったが、四代目の襲名が期待される新人が現れた。交通新聞社新書の1冊「幻の北海道殖民軌道を訪ねる」の著者田沼建治氏である。新人といっても、あとがきによると61歳。宮脇氏が「時刻表2万キロ」を刊行したのは53歳だったから、それ以上に遅咲きのデビューである。
田沼氏の著書は、北海道の殖民軌道の廃線跡を探訪した紀行文である。殖民軌道は、8ページに次のように解説されている。

殖民軌道というのは、大正十三年以降、昭和十年代にかけて、北海道の開拓のために主として道東・道北の各地に敷設された簡易な軌道である。まだ内務省直轄であった旧制度下の北海道庁(明治十九年〜昭和二十二年)が町と開拓地の間に線路を敷き、貨物や人間を運ぶための台車も用意する。そして入植者たちがこれを利用するにあたっては、機関車たる馬力は自分たちで調達し、みずからこれを運転するわけである。

その後多くの殖民軌道が廃止されたが、動力を馬力から内燃機関に進化させ、運営主体を地方自治体に変えて簡易軌道となったものがある。その一つ歌登町営軌道は、1971年に廃止されるまで、交通公社の時刻表に掲載されていた。ほかにも、浜中町や別海村などに簡易軌道があった*1。なお、4月29日の記事に書いたように、新潮社の「日本鉄道旅行地図帳」第1巻には、殖民軌道と簡易軌道の路線図と駅データが記載されている。
著書の主たる部分は、自転車で廃線跡旅行貯金のため郵便局も)を巡る紀行文である。殖民軌道の廃線跡探訪は、「時刻表2万キロ」の国鉄乗り潰し以上に特殊なテーマである。国鉄完乗のような土地勘がないから、著者の感激を共有しにくかった。むしろ、サブタイトルの「還暦サラリーマン北の大地でペダルを漕ぐ」が示す廃線跡以外の紀行文が一般読者の興味を引くだろう。カラスに馬鹿にされた(と感じた)り、設備も食事も最悪の温泉旅館に泊まったりといったエピソードや、旅で出会った人の品定めなど、著者のとぼけた観察眼には、四代目襲名の可能性をうかがわせるものがある。
著者もそれを意識しているのだろう。旅行計画の作成、脚力増強トレーニング、北海道までのフライトといった旅行の前段階に、かなり力が入っている。二箇所紹介する。
飛行機の非常口のシートを割り当てられて(p71)

非常口は搭乗口でもあるので、私の前には座席がない。だから足元がゆったりする。これはいい、と思った。そして離着陸時には私に相対するようにスチュワーデスが彼女用のシートに着席する。彼女らが雀の学校の先生のようであり、私ほかの乗客が生徒たちのような具合になる。(中略)
一方で、離陸前に「非常口の近くのお客様には非常時に係員へのご協力をお願いすることがありますのでその節はよろしくお願いします」との機内アナウンスもあった。非常口に近いのだから、非常脱出のポールポジションではあるが、それを利してわれ先に脱出するような醜態を戒めるアナウンスであった。では私は最後の乗客の脱出を見届けてから、すなわち美人乗務員たちとウンメイをともにする覚悟をきめてここに座っていれば良いのだな。ウンわかった。崇高な気分と不純な気分とがあい交錯した。

心臓への不安を抱えながら脚力強化のためのジョギング(p143)

ペースには十分気をつけてはいるが、ひょっとすると、という不安もないではない。でもどうせ心臓マヒで死ぬのなら、北海道の山中の峠道で倒れ、そして熊に食われてしまうよりも、大船近在の路上で倒れるほうが家族にとっては始末がよかろうから、同じ死ぬなら大船で、と割り切ることにした。あ、死んだら熊には食われないか。でも今度の日高は四月だから、冬眠から目覚めた熊がまだ腹を空かせている時分で、油断はできない。(中略)ともあれ心臓のことは、日高から無事帰ってきてから心配しなおすことにした。

昨年夏、世田谷文学館で開催された没後5年 宮脇俊三と鉄道紀行展のギャラリートークで、小池滋氏が「宮脇氏のユーモアは、自分を客観視することから生まれた」という趣旨の話をされたと記憶している。宮脇氏の抑制された筆致による巧まざるユーモアに対し、田沼氏はけれん味たっぷりの文体で、むしろ初代の百鬼園先生に近い。しかし、自分を客観的に覚めた目で見ているのは、各代に共通している。
四代目を確実にする今後の著作に期待したい。本書の鉄道紀行は、「はやて」、「つがる」、「はまなす」と乗り継いで、北海道に向かう第4章の冒頭くらいだが、あの筆致で本格的な鉄道旅行記を書いてほしいと思う。

*1:簡易軌道は、当時の地方鉄道法軌道法の管轄を受けていなかった。昭和45(1970)年版の私鉄要覧(鉄道要覧の前身)の軌道の欄には、歌登町営簡易軌道だけが枝幸殖民軌道として「国営(農林省所管)にして北海道庁管理」と掲載されている。

旅客事務用鉄道線路図

集英社から刊行が始まった「週刊・鉄道絶景の旅」。創刊号に付録「旅客事務用 鉄道線路図 昭和35年3月10日現在」がついている。国鉄職員が業務用に使っていた地図の復刻版である。創刊号特別価格の290円はこの付録だけでも価値があると購入した一人である。
新幹線開業の前だが、在来線の幹線網はほぼ完成していた。その後開通した幹線は、青函トンネルと瀬戸大橋を除けば、石勝線、みどり湖経由中央本線湖西線くらいである。国鉄のローカル線だけでなく、和久田康雄氏の「私鉄史ハンドブック」で名前だけ知っている地方私鉄もほとんど残っていた。
同時に国鉄バス路線網が充実していた。鉄道路線を補完(先行、代行、短絡、培養)する国鉄バス路線網の拡張期であった。路線は当時の時刻表の索引地図にも示されているが、線名が表示されているのがありがたい。さらに、国鉄連絡船だけでなく、多くの民営航路があったことがわかる。瀬戸内海など、本州と四国の港と離島を結ぶ航路が縦横にあった。旅客事務用地図に掲載されているということは、これらの航路は、国鉄と連絡運輸していたのだろう。
高度成長期に入る前の日本の交通体系を知ることができる貴重な地図である。