ISBN:9784330073095
内田百輭、阿川弘之、宮脇俊三と三代続いた鉄道紀行作家は、宮脇氏亡き後途絶えてしまったが、四代目の襲名が期待される新人が現れた。交通新聞社新書の1冊「幻の北海道殖民軌道を訪ねる」の著者田沼建治氏である。新人といっても、あとがきによると61歳。宮脇氏が「時刻表2万キロ」を刊行したのは53歳だったから、それ以上に遅咲きのデビューである。
田沼氏の著書は、北海道の殖民軌道の廃線跡を探訪した紀行文である。殖民軌道は、8ページに次のように解説されている。
殖民軌道というのは、大正十三年以降、昭和十年代にかけて、北海道の開拓のために主として道東・道北の各地に敷設された簡易な軌道である。まだ内務省直轄であった旧制度下の北海道庁(明治十九年〜昭和二十二年)が町と開拓地の間に線路を敷き、貨物や人間を運ぶための台車も用意する。そして入植者たちがこれを利用するにあたっては、機関車たる馬力は自分たちで調達し、みずからこれを運転するわけである。
その後多くの殖民軌道が廃止されたが、動力を馬力から内燃機関に進化させ、運営主体を地方自治体に変えて簡易軌道となったものがある。その一つ歌登町営軌道は、1971年に廃止されるまで、交通公社の時刻表に掲載されていた。ほかにも、浜中町や別海村などに簡易軌道があった*1。なお、4月29日の記事に書いたように、新潮社の「日本鉄道旅行地図帳」第1巻には、殖民軌道と簡易軌道の路線図と駅データが記載されている。
著書の主たる部分は、自転車で廃線跡(旅行貯金のため郵便局も)を巡る紀行文である。殖民軌道の廃線跡探訪は、「時刻表2万キロ」の国鉄乗り潰し以上に特殊なテーマである。国鉄完乗のような土地勘がないから、著者の感激を共有しにくかった。むしろ、サブタイトルの「還暦サラリーマン北の大地でペダルを漕ぐ」が示す廃線跡以外の紀行文が一般読者の興味を引くだろう。カラスに馬鹿にされた(と感じた)り、設備も食事も最悪の温泉旅館に泊まったりといったエピソードや、旅で出会った人の品定めなど、著者のとぼけた観察眼には、四代目襲名の可能性をうかがわせるものがある。
著者もそれを意識しているのだろう。旅行計画の作成、脚力増強トレーニング、北海道までのフライトといった旅行の前段階に、かなり力が入っている。二箇所紹介する。
飛行機の非常口のシートを割り当てられて(p71)
非常口は搭乗口でもあるので、私の前には座席がない。だから足元がゆったりする。これはいい、と思った。そして離着陸時には私に相対するようにスチュワーデスが彼女用のシートに着席する。彼女らが雀の学校の先生のようであり、私ほかの乗客が生徒たちのような具合になる。(中略)
一方で、離陸前に「非常口の近くのお客様には非常時に係員へのご協力をお願いすることがありますのでその節はよろしくお願いします」との機内アナウンスもあった。非常口に近いのだから、非常脱出のポールポジションではあるが、それを利してわれ先に脱出するような醜態を戒めるアナウンスであった。では私は最後の乗客の脱出を見届けてから、すなわち美人乗務員たちとウンメイをともにする覚悟をきめてここに座っていれば良いのだな。ウンわかった。崇高な気分と不純な気分とがあい交錯した。
心臓への不安を抱えながら脚力強化のためのジョギング(p143)
ペースには十分気をつけてはいるが、ひょっとすると、という不安もないではない。でもどうせ心臓マヒで死ぬのなら、北海道の山中の峠道で倒れ、そして熊に食われてしまうよりも、大船近在の路上で倒れるほうが家族にとっては始末がよかろうから、同じ死ぬなら大船で、と割り切ることにした。あ、死んだら熊には食われないか。でも今度の日高は四月だから、冬眠から目覚めた熊がまだ腹を空かせている時分で、油断はできない。(中略)ともあれ心臓のことは、日高から無事帰ってきてから心配しなおすことにした。
昨年夏、世田谷文学館で開催された没後5年 宮脇俊三と鉄道紀行展のギャラリートークで、小池滋氏が「宮脇氏のユーモアは、自分を客観視することから生まれた」という趣旨の話をされたと記憶している。宮脇氏の抑制された筆致による巧まざるユーモアに対し、田沼氏はけれん味たっぷりの文体で、むしろ初代の百鬼園先生に近い。しかし、自分を客観的に覚めた目で見ているのは、各代に共通している。
四代目を確実にする今後の著作に期待したい。本書の鉄道紀行は、「はやて」、「つがる」、「はまなす」と乗り継いで、北海道に向かう第4章の冒頭くらいだが、あの筆致で本格的な鉄道旅行記を書いてほしいと思う。