- 作者: 杉山隆男
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/01
- メディア: 単行本
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原信太郎氏が紹介されている。当時大手企業の役員*1だった原氏は「社員が通常通りの業務をこなしている」午前中、「錦糸堀にあった都電の車庫で過ごしていた」。帰りがけに「都電の前進や後進などの操作を行う、コントローラーと呼ばれる装置を、記念にと職員を拝み倒し、運転台から外して、ちゃっかりもらっている」。
夜には「十六ミリのムービー・カメラを手に、最後の都電が走るその瞬間までいよいよ残り三時間を切った銀座四丁目にあらわれ」た。和光ビルの屋上に上がらせろと守衛に交渉し断られると、親友である服部時計店のオーナーに電話する。専務があらわれ、四丁目交差点が見渡せる時計台に案内され、「端を固定したロープを命綱代わりに体に縛り続けると、転落するのではと不安そうな顔で見守っている専務を尻目に半身を外に乗り出し、カメラを回しはじめた」という。今年の夏、横浜にオープンする原鉄道模型博物館の原信太郎氏にこんなエピソードがあるとは知らなかった。
文中の誤りを指摘しておく。都電の廃止をもたらした地下鉄を象徴する都営浅草線と営団日比谷線を紹介する中で、
客足の遠のく都電を見限って都が地下鉄に乗り換える。都電の行く末をこれ以上露骨にあらわしているものはなかった。
一方で、地下鉄の新参者、都が開業した都営浅草線に真っ向勝負を挑むようにして営団が登場させた日比谷線は、実は地下鉄の歴史をそれ以前とそれ以後に大きく塗り替えてしまうターニングポイントとしての意味を担う線でもあった。
と、1962年5月31日開始された日比谷線と東武伊勢崎線との相互乗り入れによって、「地下鉄がはじめて地上を走る別の鉄道とつながった」と書く。しかし第一号は周知のように都営浅草線で、1960年12月4日に押上・浅草橋間の開業時に京成との相互乗り入れを開始している。少し調べればわかることで、わかっていれば、この辺の叙述は大きく変わっていただろう。
雑誌に連載されたとき*2から今まで、著者も編集者も気がつかなかったというのは、怠慢といわざるを得ない。日本鉄道旅行地図帳の新潮社なのに。