国有鉄道線路名称における新幹線表示の変遷

今日3月15日はJRのダイヤ改正の日。42年前の1972年3月15日にも山陽新幹線岡山開業に伴うダイヤ改正があり、「国有鉄道線路名称」が改正された。1964年10月1日の東海道新幹線開業以来初めて、別線線増として建設された新幹線が「国有鉄道線路名称」に登場したのである(日本国有鉄道公示第572号)。

日本国有鉄道線路名称(昭和24年6月日本国有鉄道公示第17号)の一部を次のように改正し、昭和47年3月15日から施行する。
 昭和47年2月9日
 日本国有鉄道総裁 磯崎 叡
 東海道線の部東海道本線の項中「東京・神戸間」を「東京・神戸(新神戸)間」に改める。
 山陽線の部山陽本線の項中「神戸・門司間」を「神戸(新神戸)・門司間」に改める。

登場したとといっても、東海道在来線の終点神戸と別に設置された新神戸が点として表示されただけで、線(区間)になったわけではない。新幹線の表示が点から線になったのは、1975年3月10日の山陽新幹線博多延伸開業時である(日本国有鉄道公示第351号)。

日本国有鉄道線路名称(昭和24年6月日本国有鉄道公示第17号)の一部を次のように改正し、昭和50年3月10日から施行する。
 昭和50年2月4日
 日本国有鉄道総裁 藤井松太郎
 山陽線の部山陽本線の項中「神戸(新神戸)・門司間」の右に「、新下関・小倉間」を加える。

山陽本線の終点の門司に対応駅がないため、新下関からの分岐区間を表示したのだろう。しかし、完全に鹿児島本線に包含される小倉・博多間は、1964年10月の東海道新幹線東京・新大阪間開業時と同様、記載されなかった。
1980年国鉄再建特別措置法が制定され、翌年3月11日公布の施行令別表第一国鉄営業線がリストされた。このとき、52番鹿児島線、107番の山陽線と156番東海道線の項*1に、それぞれ

小倉から博多まで
新神戸から新岩国を経由して小倉まで
東京から新横浜及び岐阜羽島を経由して新神戸まで

と、新幹線区間全線が記載された。これが、1982年6月23日の東北新幹線大宮・盛岡間開業時に、国鉄線路名称に反映された(日本国有鉄道公示第41号)。

日本国有鉄道線路名称(昭和24年6月日本国有鉄道公示第17号の一部を次のように改正し、昭和57年6月23日から施行する。
 昭和57年5月19日
 日本国有鉄道総裁 高木 文雄
 東海道線の部東海道本線の項中「東京・神戸(新神戸)間、品川・新川崎・鶴見間」を「東京・神戸間、品川・新川崎・鶴見間、東京・新横浜・岐阜羽島新神戸間」に改める。
 山陽線の部山陽本線の項中「神戸(新神戸)・門司間、新下関・小倉間」を「神戸・門司間、新神戸新岩国・小倉間」に改める。
 東北線の部東北本線の項中「日暮里・尾久・赤羽間」の右に「、大宮・白石蔵王・古川・盛岡間」を加える。
 鹿児島線の部鹿児島本線の項中「門司港・熊本・鹿児島間」を「門司港・新中原・熊本・鹿児島間、小倉・博多間」に改める。

さらに、同年11月15日の上越新幹線開業により、高崎線 大宮・高崎間、上越線 高崎・上毛高原・長岡間及び信越本線 長岡・燕三条・新潟間が追加された(10月4日付、公示第120号)。
1981年の施行令別表第一では、新幹線は各線の別線という位置づけだったが、これをもとに作成され、1987年のJRの鉄道事業の免許の対象となった「事業基本計画」においては、東海道新幹線(東京・新大阪間)、山陽新幹線(新大阪・博多間)、上越新幹線(大宮・新潟間)のように独立路線として表示され、「鉄道要覧」にはこれが記載されている。
一方JR各社は独自に、国有鉄道線路名称を引き継いだ「線路名称」定めている。これは公開されていないが、旅規の「東海道本線(新幹線)」などの条文からわかるとおり、独立路線となっているのは、整備新幹線として建設・開業し、並行在来線第3セクターに移管された北陸新幹線(高崎・長野間)、東北新幹線(盛岡・新青森間)、九州新幹線新八代・川内間)だけである。

*1:「線路名称」と異なり五十音順に記載し、「本」線と表記しない

続・国有鉄道線路名称の起源

2月23日の記事で、1895年初めて制定された官設鉄道の線路名称を紹介した。「東京」神戸間の表記と「金ケ崎」の記載がないことから、区間の表示名は駅名ではなく、市町村名ではないかとの仮説を検証してみた。

表示名 市町村名 駅名 備考
東京 東京市 新橋 1914/12/20東京駅開業、1943/07/01都制
神戸 神戸市 神戸
大船 小坂村 大船 1933/02/11町制(大船町)、1948/06/01鎌倉市編入
横須賀 横須賀町 横須賀 1907/02/15市制
大府 大府村 大府 1915/11/01町制、1970/09/01市制
武豊 武豊町 武豊
米原 入江村 米原 1923/11/15町制(米原町)、2005/02/14市制
敦賀 敦賀 敦賀 1937/04/01市制
高崎 高崎町 高崎 1900/04/01市制
直江津 直江津 直江津 1954/06/01市制
福島 福島町 福島 1907/04/01市制
青森 青森町 青森 1898/04/01市制
富山 富山市 富山

大船駅米原駅が村名と異なるので、市町村名でもない。1895年の線路名称はあまり厳密なものではなかった。
もう一つ、1895年当時存在した41市における私設鉄道を含めた駅の有無を調べてみた。デスクトップ鉄のデータルームの市名と駅名の関係(市代表駅)と同じスタイルで記載する(A:市名=駅名、E:市名と駅名が不一致、F:駅なし)。

市名 代表駅名 事業者 その後の開業等
A 弘前市 弘前 官設鉄道
A 盛岡市 盛岡 日本鉄道
A 仙台市 仙台 日本鉄道
F 秋田市 1902/12/01秋田
F 山形市 1901/04/11山形
F 米沢市 1899/05/15米沢
A 水戸市 水戸 日本鉄道
A 前橋市 前橋 日本鉄道
E 東京市 新橋 官設鉄道
A 横浜市 横浜(現桜木町) 官設鉄道
F 新潟市 1904/05/03新潟
F 富山市 1899/03/20富山
F 高岡市 1898/11/01高岡
F 金沢市 1898/04/01金沢
F 福井市 1896/07/15福井
F 甲府市 1903/06/11甲府
A 岐阜市 岐阜 官設鉄道
A 静岡市 静岡 官設鉄道
A 名古屋市 名古屋 官設鉄道
A 津市 関西鉄道
A 京都市 京都 官設鉄道
A 大阪市 大阪 官設鉄道
A 堺市 南海鉄道
A 神戸市 神戸 官設鉄道
A 姫路市 姫路 山陽鉄道
F 和歌山市 1903/03/21和歌山市(南海鉄道)
F 鳥取市 1907/04/28鳥取
F 松江市 1908/11/08松江
A 岡山市 岡山 山陽鉄道
A 広島市 広島 山陽鉄道
F 赤間関市 1901/05/27馬関(山陽鉄道)
1902/06/01下関市に改称とともに駅名も下関に改称
F 徳島市 1899/02/16徳島(徳島鉄道)
F 高松市 1897/02/21高松(山陽鉄道)
A 松山市 松山 伊予鉄道 1927/03/01松山市に改称
F 高知市 1924/11/15高知
E 福岡市 博多 九州鉄道
A 久留米市 久留米 九州鉄道
A 佐賀市 佐賀 九州鉄道
F 長崎市 1897/07/22長崎(現浦上)(九州鉄道)
A 熊本市 熊本 九州鉄道
F 鹿児島市 1901/06/10鹿児島

41市のうち、駅があったのは23市(56.1%)にすぎなかった*1。うち私鉄の駅が14と過半を占める。堺と松山を除き、1906-07年の第一次国有化で買収された。それまでに高知市を除く17市に鉄道が開業し、幹線網はほぼ確立した。
1895年当時、東京と博多以外は市名=駅名で21市と91.3%を占める。平成の大合併直前に80.6%、現在は68.0%まで低下した。

*1:現在は790市中729市で92.3%

国有鉄道線路名称の起源

久々の[JNR]エントリーだが、「日本国有鉄道」の時代ではなく、今から119年前、英語の略称でいえば、IJGR(Imperial Japan Governmrnt Railways)時代の話である。
1909(明治42)年10月13日、鉄道院は「国有鉄道線路名称」を公示した。1906-07年の第一次国有化が完了し、従来からの官設鉄道と買収した17主要私鉄の路線を、部(大区分)・線(小区分)の2段階呼称方式で体系化し、記載した。
しかし、「日本国有鉄道百年史」第4巻によると、それ以前に「明治28年2月23日鉄第366号(局長達)で、全国の官設鉄道の線路名称を統一し、創業以来はじめて各線の線路名称が定められた」とある。

来ル二十八年度ヨリ従来ノ営業区間ヲ廃シ更ニ左ノ通相定メ候条此旨相達候也
一 東海道線
 旧東京神戸間、大船横須賀間、大府武豊間及ヒ米原敦賀間(但シ敦賀ステーション迄)ヲ合併シテ本線ト称ス
一 信越
 旧高崎直江津間ヲ本線ト称ス
一 奥羽線
 福島青森間ヲ本線ト称ス
一 北陸線
 敦賀富山間ヲ本線ト称ス(但シ敦賀ステーションヲ除ク)

1895(明治28)年当時、奥羽線北陸線は未開業だった。1892年6月21日公布の「鉄道敷設法」第2条に予定線名として記載され、建設が開始されていたので取り込んだのだろう。
東海道線はのちの部に相当する大区分の名称である。横須賀線武豊線などという線名はまだなかった。「旧東京神戸間」などとあるのは、従来「東京神戸間鉄道」と呼ばれていたことを指すのだろう。東京駅開業前なのに新橋ではなく東京となっているのは、駅名ではなく、市名を表示しているのだろうか。ちなみに1906年の「国有鉄道線路名称」の東海道本線は、次のとおり、新橋神戸間である。

東海道線 東海道本線 新橋神戸間、神奈川横濱程ヶ谷間及貨物支線
横須賀線 大船横須賀間
武豊線 大府武豊
大津線 馬場大津間
京都線 京都園部間
西成線 大阪天保山

貨物運賃計算キロ程(1)

国鉄・JRの旅客運賃は、実際に乗車する経路のキロ程による計算を原則とし、実乗経路と異なった経路で運賃計算する例外を定めている。これに対して、貨物運賃は、原則として2駅間の最短経路のキロ程により計算し、最短経路によらない例外を定めていた。この原則と例外は、貨物営業規則第52条(運賃計算キロ程)第3項で、次のとおり規定されていた。

3 経路が2途以上あるときは、運賃計算キロ程の最短となる経路のキロ程による。但し、次に掲げるものにあつては、その指定のキロ程による。
 (1)鉄道及び航路の外に自動車線経由の経路がある区間において、鉄道又は航路相互に発着するものにあつては、鉄道又は航路経由のキロ程
 (2)1自動車線内に発着するものにあつては、当該区間に鉄道経由の経路がある場合であつても、自動車線経由のキロ程
 (3)留萌を経由し、石狩沼田・幌延間通過となる経路が最短経路となるものにあつては、これ以外の経路のキロ程
 (4)田沢湖を経由し、盛岡・大曲間通過となる経路が最短経路となるものにあつては、これ以外の経路のキロ程
 (5)信濃大町を経由し、松本・糸魚川間通過となる経路が最短経路となるものにあつては、これ以外の経路のキロ程
 (6)播州赤穂を経由し、相生・東岡山間通過となる経路が最短経路となるものにあつては、これ以外の経路のキロ程
 (7)柘植を経由し、笹島・草津間通過(笹島及び草津発又は着を含む。)となる経路が最短経路となるものにあつては、笹島・米原草津をつなぐ経路のキロ程
 (8)周防高森を経由し、岩国・櫛ヶ浜間通過(岩国及び櫛ヶ浜発又は着を含む。)となる経路が最短経路となるものにあつては、岩国・柳井・櫛ヶ浜をつなぐ経路のキロ程
 (9)直方を経由し、折尾・原田間通過(折尾及び原田発又は着を含む。)となる経路が最短経路となるものにあつては、折尾・博多・原田をつなぐ経路のキロ程

第3号以下がその最短経路の原則に対する例外規定である。第3-6号は、短絡線が新設され、この経路が最短経路となる場合は、この経路を除く経路を運賃計算経路とする規定である。「貨物営業規則逐条解説」には、「輸送力の伴わない短絡線形成」によって「事実上幹線相互間の運賃計算キロ程が短縮され、実際の輸送経路と運賃計算経路の距離の差が大きくなり」、「これを調整するため」と解説されている。
それぞれの開業日は次の通り。

路線 開業日 最終開業区間 備考
羽幌線 1958/10/18 初山別 - 遠別 84/01/31限り貨物営業廃止、87/03/29限り旅客営業廃止
田沢湖線 1966/10/20 赤渕 - 田沢湖 82/03/31限り貨物営業廃止
大糸線 1957/08/15 中土 - 小滝 87/03/31限り信濃大町糸魚川の貨物営業廃止
赤穂線 1962/09/01 伊部 - 東岡山  

いずれも、新線営業開始の国鉄公示で、通過貨物の取扱いをしない旨公示されている。羽幌線全通時の国鉄公示は次のとおり。

日本国有鉄道公示第367号
 羽幌線初山別・天塩線遠別間鉄道開通し、次の各号により昭和33年10月18日から運輸営業を開始する。但し、初山別・遠別間新線を経由し、留萌本線石狩沼田・宗谷本線幌延間経路による通過小荷物及び貨物の取扱はしない。
  昭和33年10月13日
  日本国有鉄道総裁 十河 信二
(以下略)

田沢湖線は昭和41年10月15日第656号、大糸線昭和32年8月8日第303号、赤穂線は昭和37年8月28日第340号で、同様に公示された。
その後開業した盲腸線を解消する短絡線について、同様な取扱がされていないか調べてみた。しかし、篠栗線(68/05/25篠栗桂川)、只見線(71/08/29只見−大白川)、大隅線(72/09/09海潟温泉−国分)、三江線(75/08/31浜原−口羽)、気仙沼線(77/12/11柳津−本吉)などの新線は、すべて旅客営業のみで、貨物運賃計算キロ程は設定されなかった。
同様な公示がされたのは、1973年10月、根岸線磯子・大船間に貨物営業が開始されたとき*1である。

日本国有鉄道公示第166号
 根岸線磯子・大船間通過(磯子及び大船の各停車場発又は着を含む。)となる経路のキロ程が最短となる貨物の運賃計算キロ程については、昭和48年10月1日から当分の間、貨物営業規則(昭和24年9月日本国有鉄道公示第125号)第52条第3項及び連絡運輸規則(昭和33年9月日本国有鉄道公示第331号)第156条の規定にかかわらず、東海道本線鶴見経由となる経路のキロ程による。
  昭和48年9月28日
  日本国有鉄道総裁 藤井松太郎

磯子・大船間は12.6キロだが、桜木町・高島・鶴見・横浜羽沢経由の貨物キロ設定ルートは41.8キロ。実に3倍以上のう回ルートである。なお、同区間の貨物営業は1984年1月31日限りで廃止となり、公示第166号は、昭和59年1月27日付国鉄公示第164号をもって廃止された。

訂正(08/05):当時、SM分離の前で羽沢経由の貨物線は開業しておらず、磯子・大船間の貨物運賃計算キロは、桜木町・高島・鶴見・東海道経由の40.8キロだった。

*1:旅客営業は、磯子・洋光台間が1970年3月、洋光台・大船間が1973年4月それぞれ開業

旅客事務用鉄道線路図

集英社から刊行が始まった「週刊・鉄道絶景の旅」。創刊号に付録「旅客事務用 鉄道線路図 昭和35年3月10日現在」がついている。国鉄職員が業務用に使っていた地図の復刻版である。創刊号特別価格の290円はこの付録だけでも価値があると購入した一人である。
新幹線開業の前だが、在来線の幹線網はほぼ完成していた。その後開通した幹線は、青函トンネルと瀬戸大橋を除けば、石勝線、みどり湖経由中央本線湖西線くらいである。国鉄のローカル線だけでなく、和久田康雄氏の「私鉄史ハンドブック」で名前だけ知っている地方私鉄もほとんど残っていた。
同時に国鉄バス路線網が充実していた。鉄道路線を補完(先行、代行、短絡、培養)する国鉄バス路線網の拡張期であった。路線は当時の時刻表の索引地図にも示されているが、線名が表示されているのがありがたい。さらに、国鉄連絡船だけでなく、多くの民営航路があったことがわかる。瀬戸内海など、本州と四国の港と離島を結ぶ航路が縦横にあった。旅客事務用地図に掲載されているということは、これらの航路は、国鉄と連絡運輸していたのだろう。
高度成長期に入る前の日本の交通体系を知ることができる貴重な地図である。

日本国有鉄道60年

60年前の1949(昭和24)年6月1日は、公共企業体としての日本国有鉄道が発足した日である。それまでは、運輸省現業部門である鉄道総局であった。郵政公社になる前の郵政省直轄の郵便事業と同じ形態である。
この日は、国鉄公示第1号から第43号までが公示された。第1号を紹介する。

日本國有鉄道公示第一号
日本國有鉄道の旅客及び物品の運送等に関する諸規程を次のように定め、昭和二十四年六月一日から適用する。
 昭和二十四年六月一日
 日本國有鉄道総裁 下山 定則
次の上欄に掲げる從前の告示は、それぞれ、下欄に掲げる日本國有鉄道公示とする。
前項の日本國有鉄道公示中「運輸省」及び「運輸省鉄道総局」を「日本國有鉄道」に、「省」を「國鉄」に、「省線」を「國鉄線」に、「國営自動車」を「國鉄自動車」に改める。

このあとに「貨物運送規則」から始まる37の旧諸規程が、日本國有鉄道公示第2号から第38号までの規程に読みかえられている。ちなみに、昭和17年運輪省告示第26号の「旅客及荷物運送規則」は昭和24年日本國有鉄道公示第15号の「旅客及荷物運送規則」となった。
また、国鉄公示第39号も、

昭和二十四年運輸省令第十五号を以て廃止せられた從前の昭和十八年運輸通信省令第三十二号(帝國鉄道会計ニ属スル歳入中証券ヲ以テ納付シ得ル歳入ノ種目ニ関スル件)は、昭和二十四年日本國有鉄道公示第四十号(日本國有鉄道の歳入中証券を以て納付しうる歳入の種目について)とする。
前項の規程中「帝國鉄道会計」を「日本國有鉄道」に、「出納官吏(出納員ヲ含ム)」を「出納職員」に、「省」を「日本國有鉄道」に改める。
 昭和二十四年六月一日
 日本國有鉄道総裁 下山 定則

と、従来の運輸省令を国鉄公示40号に読み替えるというものである。したがって、日本国有鉄道公示第2号から第38号と第40号の文書はない。
第42号として公示された「日本國有鉄道組織規程」が最初の自前の規程である。地方組織として、東京、名古屋、大阪、広島、四国、門司、新潟、仙台、札幌の9鉄道局(鉄道管理局ではない)が設置され、各鉄道局には下部組織として管理部が置かれた。例えば、東京鉄道局の下部組織は、新橋、八王子、上野、宇都宮、水戸、高崎、千葉の7管理部である。
各鉄道局の所管区域は公示第43号で定められた。三島はそれぞれ1局がカバーした(青函航路は札幌、宇高航路と仁堀航路は四国。関門トンネルは門司、関門航路は広島)。本州では新潟鉄道局の所管範囲が広く、傘下に山形、秋田、長野、新津の管理部を設置、その所管区域は、五能線岩館、奥羽本線陣場花輪線湯瀬(現湯瀬温泉)、横黒線(現北上線)黒沢、陸羽東線堺田仙山線山寺、奧羽本線米沢、米坂線越後金丸磐越西線豊実上越線大沢、信越本線御代田、小海線野辺山、篠ノ井線広丘、北陸本線市振まで及んでいた。
各管理部別の所管範囲が規定されたのは、6月25日付の公示第60号においてであった。

続々・初期グリーン料金制度の矛盾

またまた1969年5月のモノクラス制導入時の話である。当時の新聞記事を縮刷版で読んでいて、朝日新聞5月10日夕刊に掲載された記事を見つけた。

国鉄値上げお粗末スタート くい違う払戻し額 一等券 グリーン券への変更
きょう十日から国鉄運賃値上げ。そのなかでも、一等車が廃止されてグリーン車になったため、これまでの一等料金より逆に”値下げ”になる場合もある。では、いくら払戻しされるか―国鉄の各機関や現場に聞いてみたところ、三つの答えが返ってきた。どれが”正解”なのだろう?

新幹線東京・新大阪間の一等乗車券・特急券を購入していた旅客がグリーン券への変更に伴い、払戻しされる金額の話である。5月10日の記事に書いたとおり、同区間の運賃・料金は、次の通り6,700円から6,130円に値下げされた。その差額は570円。

旧運賃料金新運賃料金
運賃
急行料金
G料金
3,180
3,520
-
6,700
2,230
1,900
2,000
6,130
新聞記事によると、払戻し額は、東京駅八重洲中央口精算所が570円、新幹線東京車掌所?が380円。国鉄本社で計算してもらった”正解”は950円だったという。

国鉄の説明では「ひかり」の場合、旧一等特急券(三千五百二十円)がそのまま新しいグリーン券(二千円)と特急券(千九百円)に使え、旧一等運賃(三千百八十円)と新運賃(二千二百三十円)の差額九百五十円を払戻すことになる、という。

東京車掌所の380円の根拠は不明だが、国鉄本社の見解が正解だとすると、運賃と料金を分けて、それぞれ過剰額は払戻し、不足額は収受しないという取扱いである。限りなく一等運賃に近かったグリーン料金は、ここでは一人前の「料金」として扱われている。
旅規第5条の「運送契約は運賃・料金を支払い、乗車券類の交付を受けた時に成立し、契約時の規定によって取り扱われる」という原則は当時も同じだから、値上げ前に乗車券を購入するという自衛手段は広くとられていた。引用した記事のとなりに、「切符の売上はガクン」という記事があり、「(運賃値上げ法案が成立した)9日の指定券売上座席数は8日の2割増、とくに午後4時以降は5割増」と書かれている。
しかし、値下げのとき差額を、それも旅客にとって最も有利となる金額を払い戻すというのは、どんな規程に基づくものだったのだろう。当時の乗車変更は、「不足額は収受するものとし、過剰額は払いもどしをしない」だったから、国鉄としては破格の取扱いである。このような取扱いを予想して、事前購入した旅客もいたのだろうか。