「完乗」という用語の起源

12月14日の記事主婦 JR全線「完乗」には、当事者の方を含め多くのコメントをいただいた。あらためて、完乗に対する関心の高さを感じた。もう一つ、朝日新聞がカッコつきながら「完乗」の語を使用したのにも興味を覚えた。乗りつぶしという行為とともに、「完乗」という用語は、市民権をえたようだ。いつごろから使われだした言葉だろうか。
完乗が脚光を浴びたのは、周知のように1978年7月宮脇俊三氏の『時刻表二万キロ』の出版によってである。その4ヶ月後、「サンデー毎日」1978年11月26日号に「全線走破 オレたちもやった」という記事が掲載された。

 同好の士というのは案外多いものである。元中央公論編集長の宮脇俊三氏が、国鉄全線を走破して『時刻表二万キロ』を著したことは、本誌8月13日号でお知らせした通り。その後、編集部に、宮脇氏と同じ体験の持ち主が他にもいるとの情報が寄せられた。糸をたぐると、いるわ、いるわ、今、わかっているだけでその数、三十一人。何人かに話をきくとそれぞれ色合いの違った"わが鉄路"を心に抱いているのだった。
 三十一人、という数字がすぐわかったのは、まとめ役的な人がいたからだ。日本交通公社・時刻表編集部の石野哲さんである。

と、石野氏、石田穣一氏*1など5名の体験談が記載されている。タイトルの通り、記事は「全線走破」で統一され、「完乗」はまったく出てこない。
その石野氏が翌1979年3月、交通公社から『時刻表名探偵』を出版した。その第四部が「全線走破のススメ」で、やはり「全線走破」。4ヶ月のあいだに1名が新たに名乗り出たらしく、32名の達成人リストが掲載されている。女性の完乗第1号だろうとされる岩間昌子さんは、ブログによると、この項の「残念ながら男だけ、女の人はおりません」に触発されて、高校生時代に完乗を決意したそうである。
1980年3月国鉄が開始した「いい旅チャレンジ20,000km」キャンペーンのパンフレット(申込書を兼ねて、400円で発売)は、「ときめきの踏破パスポート」と題され、「国鉄踏破ゲームの詳しいルール」、「踏破認定チェックポイント」など、もっぱら「踏破」を使用している。
「旅」1980年8月号に国鉄完乗第1号とされている後藤宗隆氏の記事が掲載されているが、後藤氏も「国鉄全線走破」と書いている。ただし、タイトルは「国鉄完乗第一号」。おそらく編集部が付けたのだろうが、このころから「完乗」が使われていたことがわかる。
神戸大学のウェブサイトに震災神戸大犠牲者への追悼手記が掲載されている。そのなかに、経済学部2年の後藤大輔さんのお父上の

小学校低学年の頃、鉄道に興味を持ち、大阪在住中は関西近郊によく出かけていた。子供への何かのプレゼントに『宮脇俊三の時刻表二万キロ』を買ってあげてから感化されたのか、二万キロ完乗の悪戦苦闘が始まったと思われる。お年玉やアルバイト代を注ぎ込み、休日のかなりをさいてひたすら乗り廻った、生々しい二十歳までの記録ノートである。あと二千キロ乗れば達成というところまできていた。完乗の最後に降り立つ駅は境線の後藤駅にすると言っていたと友達より聞く。残念だったことだろう。

という、身につまされる追悼文がある。あえて引用させていただいたが、震災のあった1995年にはすでに、「完乗」が一般的に使われていたことがわかる。
初めて「完乗」を使ったのは、やはり宮脇さんのようである。『時刻表二万キロ』第1章に

私は次第に熱心になり、昭和五〇年の正月休みに南九州で一万八千キロを超え、残存区間が二千七百キロになったころには、全線完乗を目指そうと心に決めていた。

と、「全線完乗」としてではあるが「完乗」を使っている。『時刻表二万キロ』が版を重ね、文庫本にもなり、読者が増加するにつれて、「全線完乗」が「全線走破」や「踏破」を駆逐し、「全線」が省略されて「完乗」が一般的になったたということだろう。
筆者も国鉄時代の完乗者だが、大学鉄研のOB会の会報などに寄稿した文章は、1990年ころまで「全線乗車」を使用していた。ウィキペディア完乗は、2003年7月4日が初出で、その筆者は私だが、このときは、まったく迷いなく「完乗」を使った。

*1:当時東京地裁判事。現在沖縄に在住し、ペンネームゆたかはじめのエッセイスト