「阿房列車」の運転日−本日のウェブ更新

"乗り鉄"先駆者の足跡の表1に、内田百間*1阿房列車」の行程を掲載している。本日の更新でこの表に加筆した。
阿房列車」の乗車列車は、ほとんどが文中に書かれているので時刻は特定できるが、日付が不明な旅行が多い。同じページに行程を掲載している宮脇俊三「時刻表2万キロ」との大きな違いである。どちらも名紀行文だが、史料的価値という点では、宮脇氏に軍配が上がる。
以前読者からメールで、「第三阿房列車の「房総鼻眼鏡」の日程を1953年12月20日からとしているが、その根拠は」との質問を受けたことがある。このときは、テキストを読み返して「今日は、旧暦の十一月十五夜」をみつけ、昭和28年の旧暦11月15日は、新暦では12月20日、日曜日。「師走も半ばを過ぎているのに」「今日は日曜日ですから」にも合致する、と回答した。このように旧暦で日付が書かれている紀行は、他にもある。
筆者がこのページをリリースした2005年2月当時、旅行日が不明なものについては、阿房列車全行程の同行者、ヒマラヤ山系こと平山三郎氏の「阿房列車の周辺」(「阿房列車の車輪の音」六興出版、1980/1/25の巻末解説)を参照した。しかし、日付の記載があるのは5編だけで、他は年月のみである。これらは、ウェブに掲載された情報を参考にした記憶があるが、今検索しても見当たらない。出典を明記しておかなかったのは、迂闊だった。
ウィキペディアは、佐藤良介内田百間阿房列車の足跡」(『レイル』No.31 1996年1月所収)を参照して、全行程の日付が記載されている。佐藤氏と筆者の旅行日は「時雨の清見潟(興津阿房列車)」に1日のずれがあるものの、他はすべて同じであった。
興津阿房列車は、佐藤氏が1954年11月26、27日、筆者は11月27、28日である。テキストには日付の記載がまったくない。暴風雨でダイヤが乱れ、帰路に興津駅に臨時停車した「きりしま」に乗車したというエピソードから、昭和29年の台風を調べてみた。
この年は台風が多く(洞爺丸台風も1954年9月)、11月にも20号から22号まで三つの台風が発生した。11月25日発生、12月2日消滅の台風22号は、北緯11度あたりを東から西に通過しており、20号、21号も東海地方に豪雨をもたらすようなルートを通っていない。
台風ではなく、

駅長室で話を聞くと、先程から沼津とその次の原駅との間をひどい突風が吹きぬけ、その為に列車を走らせる事が出来ないのだと云ふ。沼津、原間は富士嵐(ふじあらし)の通り路になってゐて、時時こんな事があるさうだが・・・

らしい。図書館で新聞の縮刷版にあたって、10月29日の朝日新聞朝刊に次の記事を見つけた。

夕刻まで混乱 東海道線 静岡県
[静岡発]二十八日朝十時ごろから静岡県東、中部を襲った強風は正午すぎ一たん弱まったが、午後二時ごろ再び強くなり、同二十分には富士川付近で最大風速二十メートルの強風となった。このため午後零時四十分ごろ一たん動き出した列車は再び危険予防のため一斉に停車、函南−焼津間に下り特急「はと」急行「阿蘇」「げんかい」「西海」上り特急「つばめ」をはじめ約二十本の旅客列車が立ち往生しダイヤは混乱を続けた。夕刻になり風もおさまり午後六時近く各列車は運転を開始したが、ダイヤの完全復旧は二十九日朝になると静岡鉄道管理局ではいっている。

列車が立ち往生したのは11月28日で、やはり11月27-28日の旅行だった。
なぜ、佐藤氏が11月26日出発としたのか。おそらく、平山三郎阿房列車物語」(論創社、1981/03/25)所収の「亭主惶恐謹言」を参照したものと思われる。鹿児島阿房列車以降の各編の旅行年月日と掲載誌の一覧*2があり、その中に

時雨の清見潟(興津阿房列車) 同十一月二十六日 興津 雑誌「国鉄」30年八月

とあるので、これにしたがったのであろう。
もう一つ、読者から「特別阿房列車」の帰途乗車した「はと」は一等ではなく、二等だったとの指摘を受け、これを訂正、加筆した。百鬼園先生は二等車は中途半端で嫌いといいながら、一等車が連結していない列車は三等ではなく、けっこう二等に乗っている。4年間も誤りを放置していて、お恥ずかしい限りである。
本日の更新では、ほかに駅名接頭・接尾語考の「国名駅」も改訂した。

*1:正しい漢字は文字化けするので代用

*2:このリストは、他にも宿泊日数の合わないところがあるが、興津阿房列車を除き、出発日は同じだった。なお、それ以前の特別阿房列車は、同書の「阿房旅行出立」に、区間阿房列車は「亭主惶恐謹言」の本文中に旅行日の記述があった。