殖民軌道と簡易軌道

6月19日の記事で、殖民軌道と簡易軌道の関係について

その後多くの殖民軌道が廃止されたが、動力を馬力から内燃機関に進化させ、運営主体を地方自治体に変えて簡易軌道となったものがある。その一つ歌登町営軌道は、1971年に廃止されるまで、交通公社の時刻表に掲載されていた。ほかにも、浜中町や別海村などに簡易軌道があった(注)。
注:簡易軌道は、当時の地方鉄道法軌道法の管轄を受けていなかった。昭和45(1970)年版の私鉄要覧(鉄道要覧の前身)の軌道の欄には、歌登町営簡易軌道だけが枝幸殖民軌道として「国営(農林省所管)にして北海道庁管理」と掲載されている。

と断定的に書いてしまったが、次のような疑問を抱いていた。

  1. なぜ、歌登町営軌道だけが、時刻表と(枝幸殖民軌道として)私鉄要覧に掲載されていたのか。
  2. なぜ、枝幸殖民軌道の所管官庁が農林省だったのか。
  3. なぜ、歌登町営軌道が枝幸殖民軌道として掲載されたのか。殖民軌道=馬力・運行組合、簡易軌道=内燃機関・町村営という区分は間違いか。

「幻の北海道殖民軌道を訪ねる」のあとがきに記載されているウェブサイト、「簡易軌道歴史館」の簡易軌道総説にこの疑問に対する答があった。その内容を紹介し、間違っていた部分を訂正させていただく。
まず、歌登町営軌道(枝幸殖民軌道)の特殊性については、

殖民軌道は、第二期北海道拓殖計画が終了する1946(昭和21)年度までに34線・約625kmが建設されました。原則として馬力線で運行組合が管理しました。運行距離が長く輸送量の多い根室線と枝幸線だけはアメリカ製ガソリン機関車を投入して動力化し、北海道廰直営線として軌道法32条に準じ鉄道省と協議、「北海道廰殖民軌道」として時刻表にも掲載されました*1。その後、根室線の直営は省線標津線の開通に伴って終了しますが、ガソリン機関車は藻琴線や真狩線に転用されました。

ということで、殖民軌道根室線とともに、軌道法32条の適用を受けていたらしい。同サイトの用語集によると軌道法第32条は、

32条 国ニ於テ軌道ヲ敷設シテ運輸営業ヲ経営セムスルトキハ当該官庁ハ主務大臣ニ協議ヲ為スヘシ其ノ工事施行ニツキ亦同シ
2 国ニ於テ経営スル軌道ニ付イテハ第2条(道路上敷設ノ原則)、第12条第1項(軌道関係部分道路ノ維持及ビ修繕ノ義務)、第14条(建設、運輸、運転、係員、及ビ会計ニ関スル規定)及第24条第1項(工作物ノ使用廃止ノ際ノ道路ノ現状回復義務)ノ規定ヲ除クノ外本法ヲ適用セス但シ第14条中軌道ノ係員及ビ会計ニ付イテハ此ノ限ニ在ラス

という条項であった(1986年12月削除)。「当時の地方鉄道法軌道法の管轄を受けていなかった」と書いたのは、間違いだった。
また、農林省が所管官庁であることについては、

戦後、内務省の解体に伴って簡易軌道の新設・改良や復旧・維持は農林省の所管となり、新しく生まれた地方自治体である北海道に管理委託され、戦時中の酷使と資材不足で疲弊していた各線の復旧工事がさかんに行われるようになりました。実際の運営は北海道と管理委託契約を結んだ運行組合が行いました。

と書かれている。
ところが、よくわからないのは、3の殖民軌道と簡易軌道の関係である。

1942(昭和17)年には殖民軌道の名称が「簡易軌道」に改められ、やがて終戦を迎えます。

と書かれているが、これは同サイトにある公文書と矛盾する。1953(昭和28)年7月25日北海道庁告示第1139号には、

北海道庁殖民軌道使用規程(昭和4年北海道庁令第75号)第一条の規定により、北海道殖民軌道の路線名、区間及び運行距離を次のとおり定め、これに関する従前の告示はすべて廃止する

と「殖民軌道」の名称が使われていて、その中に殖民軌道歌登線も記載されている。この告示は、1973(昭和48)年2月15日北海道告示第318号によって廃止されるまで、存在した。一方1954(昭和29)年2月2日規則第8号として「北海道簡易軌道補強事業費補助規則」が制定されており、こちらは「簡易軌道」である。
また、別のカテゴリーに「町(村)営軌道」がある。

やがて、総理府北海道開発庁が設けられて1951(昭和26)年に同庁の事業実施機関である北海道開発局が発足すると、簡易軌道事業のうち新設・改良については簡易軌道改良事業として同局が所管することになりました。その際、改良事業の対象となる線区は「公共物」に編入され、土地改良財産に準じて地方自治体と北海道とが管理委託契約を結ぶことになったため、「町(村)営軌道」という名称が誕生しました(対象とならなかった多くの馬力線は、運行組合の後身である運行協力会が管理、運営)。

と、内燃機関を動力として新設・改良された路線が、運営主体を地方自治体に移管されて、名づけられたものだったようだ。これらの町(村)営軌道が「北海道簡易軌道補強事業費補助規則」の対象であり、一般に簡易軌道と呼ばれたのではないか。であるなら「殖民軌道が動力や運営主体を変えて簡易軌道となった」と書いたのは、あたらずと言えども遠からずではなかったか。
いずれにせよ、ある時期「殖民軌道」と「簡易軌道」が併用され、同一の路線が異なった名前で呼ばれていたようだ。歌登町営軌道は、私鉄要覧に掲載された枝幸殖民軌道が正式名称だったのだろうか*2
なお1970(昭和45)年の私鉄要覧に小頓別・枝幸間35.2キロとあるのは、間違いだろう。当時歌登・枝幸間は廃止されていた。この区間の廃止時期は資料によってまちまちで、「日本鉄道旅行地図帳1号 北海道」によると1949(昭和24)年8月、「簡易軌道歴史館」の簡易軌道路線変遷表では1950(昭和25)年。交通公社の時刻表に小頓別・枝幸間として掲載されていたのは、復刻版では1952(昭和27)年5月号が最後である。

*1:今尾恵介「地形図でたどる鉄道史 東日本編」によると、「中標津〜標津間が残っていた頃の昭和9年の時刻表には掲載されている」とある。戦後時刻表に掲載された簡易軌道は、歌登町営軌道のほかに鶴居村村営軌道と東藻琴村村営軌道があった。

*2:また、北海道庁の告示には、殖民軌道○○線という名称が使われているが、○○殖民軌道という名称は正しいのだろうか。