国鉄バス関門急行線の旅規規定

9月15日の記事に興味深いコメントをいただいた。国鉄バス関門急行線が開業した1958年3月10日から、旅規の関門急行線に関する規定が施行された4月1日までは、自動車線を含む史上最長の片道乗車券が発売される可能性があったというものである。
1958年10月1日に全面改定された旅客及び荷物運送規則の68条4項に、関門急行線を通過する場合の旅客運賃計算キロ程の打切りの規定があったことは承知していた。しかし、関門急行線の開業と打切り規定の制定との間にタイムラグがあったとは、知らなかった。
関門急行線の開業は1958年3月10日の国鉄公示第76号で公示された。

昭和33年3月10日から関門急行線山口・博多間において、次の各号によつて一般乗合旅客自動車運送事業を開始する。
 昭和33年3月10日
 日本国有鉄道総裁 十河 信二
1 停車場及びキロ程(省略)
2 取扱範囲(省略)

途中の停車場は、湯田温泉小郡駅前、宇部小串通、小野田公園通、小月駅*1、門司大阪町小倉駅前通、八幡中央町、福間、呉服町であり、関門海峡を挟む区間に鉄道線との接続駅がない。関門海峡を通過する国鉄線が鉄道と自動車の2路線となり、本州から九州にわたり、再び本州に戻る1枚の乗車券が発売される可能性があった。なお1958年3月当時は紀勢本線がまだ全通していない。最後の三木里・新鹿間の開業は1959年7月15日であり、最長片道切符はこの区間国鉄バス紀南本線経由とする必要があった。
旅客運賃計算キロ程の打切り規定が旅規に制定されたのは3月26日の国鉄公示第94号で、当時の47条(鉄道の旅客運賃の計算に使用するキロ程)に第3項が追加された(4月1日施行)。

3 第1項本文または前項の規定により旅客運賃計算のキロ程の通算をする場合において、旅客運賃の計算経路が幡生・小倉間(山陽本線及び鹿児島本線経由)又は小月駅前・門司大阪町間(関門急行線経由)を通過するものについては、同項の規定にかかわらず、次の各号によつてキロ程の打ち切りを行う。
(1) 小月駅前・門司大阪町間(関門急行線経由)を通過した後、更に幡生・小倉間(山陽本線及び鹿児島本線経由)を通過する場合は、幡生又は小倉のいずれかのうち乗車方向に従った最初の駅においてキロ程の打ち切りを行う。
(2) 小月駅前・門司大阪町間(関門急行線経由)を通過して鉄道区間を乗車した後、再び同区間を通過する場合は、再び通過となる関門急行線の前後の鉄道区間のキロ程は、接続駅で打ち切りをする。
(3) 幡生・小倉間(山陽本線及び鹿児島本線経由)を通過した後、小月駅前・門司大阪町間(関門急行線経由)を通過する場合は、関門急行線の前後の鉄道区間のキロ程は、接続駅で打ち切りをする。

コメントにあるように、3月26日付鉄道公報の「通報」欄に「関門急行線を通過する場合の旅客運賃計算キロ程の打切り方について」という国鉄営業局の解説記事が掲載され、二つの例を紹介している。

(例1)吉塚から、鹿児島本線で福間、関門急行線で山口、山陰本線で京都、東海道本線山陽本線鹿児島本線で熊本までの場合は、幡生において鉄道の旅客運賃計算キロ程を打ち切る。従つて、この場合は、吉塚から幡生まで(吉塚から福間までと山口から幡生までのキロ程とは通算する。)を第1券片、幡生から熊本までを第2券片とした周遊*2とする。
(例2)京都から、東海道本線山陽本線鹿児島本線日豊本線で大分、豊肥本線で熊本、鹿児島本線で博多、関門急行線で山口、山陰本線で京都までの場合は、京都から博多までを第1券片、博多から京都までを第2券片とした周遊とする。

同年10月の旅規全面改定で、47条3項は、68条4項に移った*3。1959年8月1日、小郡駅前と小倉駅前通に代えて、小郡と小倉の各停車場が設置され、鉄道線との接続駅となり、68条4項は廃止となった。
なお、当時はまだ関門連絡船*4が運航しており、門司(山陽)下関(関門航路)門司港(鹿児島)門司と関門海峡を往復する1枚の乗車券が発売された。

*1:1959年7月11日廃止、代わりに小月町停車場を設置

*2:現在の連続乗車券。当時は回遊乗車券という名前だったはずだが

*3:表記に微妙な違いがある

*4:1964年11月1日廃止

日本国有鉄道公示

1949年6月1日から1987年3月31日まで、公共企業体として存在した日本国有鉄道が総裁名で出した公示は16,188件あり、1日平均1.17件になる。年月別の公示数の推移は次のとおり。

123456789101112月平均
19496414242513354121630.9
195019103126311729333729163231025.8
195115254033203816212040405135929.9
195225424539283136404044382843636.3
195342273936361537433936315843936.6
195425284317253347374835275441934.9
195525245641443439314235433144537.1
195628335654224243303141604848840.7
195719406838603731395443233949140.9
195827443442395636363538424847739.8
195931214354364854292766387752443.7
196034386973576053425559526866055.0
196132355598515342446643296661451.2
1962312475475047443267114499667656.3
196336447790522747348239553461751.4
196429466656524846498061285361451.2
19655942837032963966103934110082468.7
1966497012656514869637679688584070.0
196744509348493074395434505261751.4
196832335745562647296544202948340.3
196912203037532628425837155441234.3
197056287245313431546848303753444.5
197136496850253333316738305151142.6
197235638730414558236335284555346.1
197315225739232820234631151733628.0
197420125043212331399126213841534.6
197512344818171726112322292728423.7
197617323219993016232436425120.9
197713181818201810141223231119816.5
197814222919141721174013223025821.5
1979183319191716102723121019516.3
198081031341618121149145921718.1
198189232411159121511171016413.7
198291532321928157152737724320.3
198397602113219161217151521517.9
19843917442110107112318131022318.6
1985726732241811172620171525621.3
1986181536916201373653131625221.0
198725455212240.7
公示は暦年ごとに付番されていたが、1972年以降年度ごとに変更になった。そのため昭和46(1971)年は、1月から翌年3月まで15ヶ月間通して付番されており、696号まである。
年月あたりの公示数にはかなりバラツキがある。1966年に840件*1と最多を記録した。月あたりの件数が100件を超えたのは、赤字で示した4箇月。1日当たりの最多は1966年3月4日の53件、2位は1974年9月12日の51件であり、50件を超えたのはこの両日だけである。それぞれ3月5日、10月1日施行の運賃・料金の値上げがあり、旅規などが改定された*2が、公示件数が多かったのはそのためだけではない。因みに、等級制からモノクラス制に移行し、旅客営業制度史上最大の改定があった1969年5月9日の公示件数は19件しかない。
当時の公示件数が多かったのは、各種の単行規程が公示されていたからである。例えば、1966年3月4日には、162号で連絡運輸規則が改定されたのとは別に、次の個別規程*3が改定された。

名称 原規程 内容
163 連絡準急行券の取扱方 昭和30年9月公示第331号 小田急御殿場線への直通運転
164 連絡普通急行券の取扱方 昭和37年2月公示第51号 国鉄長野電鉄への直通
165 連絡準急行券及び連絡座席指定券の取扱方 昭和40年7月公示第411号 名鉄高山本線への直通
166 連絡準急行券及び座席指定券の取扱方 昭和36年1月公示第16号 南海の紀勢本線への直通

また、旅規別表で定めた国鉄バスの定期運賃を適用せず、個別に制定されていた路線も公示されていた。3月4日の公示179号で柳ケ瀬線、180号で杉津線の各規程を廃止、181号で柳ケ瀬線及び杉津線を統合した規程を新たに制定し、182号で白棚高速線、183号で阪本線の規定をそれぞれ改定している。なお181、182、183号では運賃を規定した別表について、

別表省略。ただし、関係の自動車営業所及び停車場に掲げる。

と省略している。しかし7月13日の記事で紹介した「内容省略。ただし関係の向きに配布する」と異なり、鉄道営業法第3条の

運賃其ノ他ノ運送条件ハ関係停車場ニ公告シタル後ニ非サレハ之ヲ実施スルコトヲ得ス

に合致している。旅規別表による自動車定期運賃は国鉄時代を通じて存続していたが、個別定期運賃の公示は、1968年2月28日の「園篠線(自動車)等における自動車定期旅客運賃(昭和40年6月日本国有鉄道公示第340号)の一部を次のように改正し、昭和43年3月1日から施行する」が最後である。
もう一つ件数が多いのは、各種の割引貨物運賃の公示である。「割引運賃(賃率)を定める件」や「割引運賃(賃率)の一部改正」といった公示で、1965年の計824件中152件、1966年の計840件中220件を占める。1965年1月6日公示1号は、「浜松駅発小口混載貨物に対する割引運賃を次のように定める」、7日の2号は「けい素鋼板に対する割引運賃を次のように定める」と、駅ごとまたは品目ごとに割引運賃が公示されていた。しかし1974年9月12日の「博物館資料に対する割引賃率(昭和27年5月日本国有鉄道公示第159号)の一部を次のように改正し、昭和49年10月1日から施行する」を最後に見当たらない。1964年赤字になった国鉄は、割引運賃によって小口貨物輸送需要の喚起に努めたが、トラックなどとの競合により、拠点間のコンテナ輸送など大口大量輸送への選択と集中を行い、合理化を進めていった歴史がうかがえる。
なお、公共企業体になる以前の国鉄運輸省の直轄事業で、同様の内容は運輸大臣名で「告示」されていた。日本国有鉄道の「公示」を経て、民営化後は各社の社長名の「公告」になった。3文字から2文字をとった名称の推移も興味深い。旅規等の改定公告をウェブで公開しているのはJR九州だけだが、2010年3月30日の身体障害者旅客運賃割引規則の改定公告は第17号で、年度末でも20に満たない。JR東日本の公告件数は不明だが、国鉄時代後半からさらに激減していると思われる。
追記(7月24日):国鉄バスの定期運賃と鉄道営業法は関係なかった。道路運送法12条に

一般旅客自動車運送事業者(一般乗用旅客自動車運送事業者を除く。)は、運賃及び料金並びに運送約款を営業所その他の事業所において公衆に見やすいように掲示しなければならない。

という規定があり、これに従ったものだろう。一方、割引運賃とはいえ普通周遊券や均一周遊券の運賃を約款(周遊割引乗車券発売規則)で定めず、公示しなかったのは、鉄道営業法3条の違反ではないだろうか。

*1:446号と567号の2件は欠号で、公示は842号まである

*2:74年9月12日は旅規から荷物営業規則を分離した

*3:これらの各公示は、1967年3月31日限りで廃止された

周遊割引乗車券発売基準規程

7月13日の記事は周規改訂履歴の情報源である鉄道公報の話だったが、今日は周規の改定内容について書く。今回追加した期間の改定内容を見ると、周規で定めていた契約条項を「別に定める」とした変更が散見される。例えば、普通周遊券と均一周遊券の旅客運賃は、1974年10月1日施行の改定で「別に定める」とされた。
普通周遊乗車券の運賃は、第8条第1号の

一般周遊乗車券及びワンポイント周遊乗車券の旅客運賃は、普通旅客運賃を1割引し、旅客規則第74条の2に規定するは数計算(以下「は数計算」という。)をした額とする。(後略)

が、

普通周遊乗車券及びこれと一括発売する周遊船車券の旅客運賃は別に定めるところにより、割引の旅客運賃とする。

と改定され、均一周遊券は、第20条で

一般用均一周遊乗車券(第16条第4項の規定により発売するもの*1を除く。)の旅客運賃・期間及び発地帯の国鉄線駅と自由周遊区間の入口の駅との区間の乗車船経路は、別表第6号の通りとする。

と規定していたが

第16条第1項から第3項までの規定により発売する均一周遊乗車券の旅客運賃、有効期間及び発地帯の国鉄線駅と自由周遊区間の入口の駅との区間の乗車船経路は、別に定める。

と改定された*2
旅客営業規則(旅規)に旅客営業取扱基準規程があるように、単行規程にも約款を補完する基準規程がある。周遊割引乗車券発売規則(周規)に対応するのが周遊割引乗車券発売基準規程(周基)であった。「別に定める」とは、普通周遊券の運賃規定が周規第8条から周基第9条の2に移行し*3、均一周遊券については周基第26条で「ワイド周遊券は別表第7に、ミニ周遊券は別表第7の2に掲げるとおり」と定めたことを意味する。
もっとも重要な契約条項である運賃が約款から外れた一方、運賃払戻しの手数料は周規本文に残されるという奇妙な事態になったのである。その他、それぞれの様式も最後まで周規別表に残った。
均一周遊券の運賃等は、時刻表のピンクのページに記載され、周知されていたが、普通周遊券の割引率について直後のJTB時刻表1975年3月号には記載がない。その代わり、オーダーメードの普通周遊券のモデルコースをレディーメード化し、1972年7月誕生したルート周遊券13コース(サブルート3コース、レンタカールート7コースを含む)の運賃が記載されている。
そのルート周遊券だが、周規にも周基にも全く規定されていない。「国鉄乗車券類大事典」(JTB、2004年1月刊)には

昭和47年6月30日(公示120、7月15日施行)、「周規」に基づいた通達(旅総221)で「ルート周遊券」が生まれた。

とあるが、公示120号は7月1日付の旅規の改定公示であり、通達旅総221号は鉄道公報の6月30日号にも、7月1日号にも掲載されていなかった。周遊券と称しているが、個別の通達による特別企画乗車券の先駆のようである。「周規の改定内容について書く」と言いながら、また情報源の話が多くなってしまった。
追記(7月25日):知人から、「ルート周遊乗車券の発売について(通達)」という出所不明の文書のコピーをもらった。昭和48年8月28日付旅総第332号で、

周遊割引乗車券発売規則(昭和30年1月日本国有鉄道公示第20号。以下「周遊規則」という。)に定める普通周遊乗車券の1種として、特定の観光地を周遊できるルート周遊乗車券を下記により発売する。

という、旅客局長、自動車局長と経理局長の3者連名で国鉄の各部署に送達された文書である。内容は、種別、発売箇所、効力、様式、乗車変更、払いもどし等、周規の各条項を網羅している。「普通周遊乗車券の1種として」とあるが、内容的には普通周遊券と均一周遊券の折衷版であった。例えば、普通急行(指定席・グリーン車・寝台を除く)には急行料金不要で乗車できた。また、「一部の券片の区間内については、別表に掲げるところによりその乗車回数を制限しない」という規定もあった。
附則の第2項に

この通達の施行に伴い、ルート周遊乗車券の発売について(昭和47年9月21日付旅総第467号)は、昭和48年8月31日限り廃止するほか、旧様式となるルート周遊乗車券は当分の間、訂正して使用することができる。

と書かれており、先行の通達があったことがわかる。ところが、「国鉄乗車券類大事典」に書かれていた通達旅総221号と同様、この二つの通達も鉄道公報に掲載されていない。普通周遊券、均一周遊券に次ぐ第三の周遊券を発売するのだから、本来は周規を改定して公示すべきであるのに、なぜ鉄道公報にも掲載しない通達*4で行ったのだろうか。

*1:準発地帯・発地帯間を附加して発売するもの

*2:特殊用均一周遊券(ミニ周遊券)については、70年10月1日の発売開始時から「別に定める」であった

*3:国鉄線(国鉄バスを除く)が2割引きになったのは、1984年4月20日の運賃改定時だったと思うが、この通達が記載された鉄道公報も号外であり、確認できていない

*4:昭和47年9月21日の公報には、旅客局長の荷物関連の通達が3件掲載されている。昭和48年8月28日は通達が1件も掲載されていない

新幹線開業の国鉄公示

50年前の今日華々しくデビューした東海道新幹線だが、国鉄公示は簡単なものだった。
新線開業時の国鉄公示は、日本国有鉄道線路名称の改正公示と運輸営業の開始と駅設置の公示がセットになっていた。新幹線開業6日後の10月7日白糠・上茶路間が開業した白糠線*1は、昭和39(1964)年9月30日付国鉄公示第460号で

 日本国有鉄道線路名称(昭和24年6月日本国有鉄道公示第17号)の一部を次のように改正し、昭和39年10月7日から施行する。
 根室線の部池北線の項の次に次の1項を加える。
 白糠線(白糠上茶路間)

と線路名称の改正が、第461号で

 昭和39年10月7日から根室本線白糠停車場から上茶路停車場に至る鉄道において、次の各号により運輸営業を開始する。

と旅客運輸営業の開始(上白糖、茶路、縫別、上茶路駅の設置を含む)が公示された。
ところが新幹線については、9月1日付の日本国有鉄道公示第392号で

 東海道本線東京・新大阪間増設線(新幹線)の完成に伴い、停車場の設置その他を、次のように定め、昭和39年10月1日から施行する。

と、新横浜、岐阜羽島、新大阪の3駅の設置が公示されただけである。新幹線は東海道本線の増設線として位置付けられたため、国鉄線路名称の改正も、運輸営業の開始も公示されなかった。3月15日の記事で書いたように、山陽新幹線岡山開業時の1972年3月15日、東海道本線が「東京・神戸(新神戸)」間に山陽本線が「神戸(新神戸)・門司間」となり、国鉄線路名称に新幹線の影が初めて現れた。
新幹線開業に伴う旅規改定は9月7日付第396号で公示されたが、ここでも増設線として従来の体系の中に位置づけられた。新幹線開業当時国鉄営業局総務課長補佐だった須田寛*2は「東海道新幹線」(2000年8月、JTBキャンブックス)で

昭和39年10月の開通時の東海道新幹線の法律上、又、営業上の位置付けは東海道(在来)線の複々線化であり、同時に在来線との緩急分離による特急列車専用線ということであった。工事認可も東海道線の線路増設として受けており、東海道線の抜本的輸送力増強をはかるためにはこの考え方に立って両線を用途別にかつ円滑に使い分けていく必要があった。このため新幹線については、(1)運賃(基礎となる営業キロ)は在来線と同一とし営業制度も原則として在来線の例による、(2)その高速性、運行コスト等を考えて在来線よりやや割高の新幹線特急料金を設定する、ことが基本となった。このため運送約款も特別なものを作らず、この考え方が在来の約款の一部変更で織り込まれたのである。

と解説している。
旅規改正の内容は旅規改訂履歴1958-1987(日付順)の1964年10月1日の項のとおりだが、東京・小田原間と名古屋・米原間の選択乗車が設定され、その後の新幹線の延伸開業時に新在別線区間を選択乗車区間とする先例となった。しかし新幹線と在来線−同一路線扱いの虚構と矛盾で指摘しているように、新在別線通過型の選択乗車区間を設定する必要はなかった。
約款の共通化によって意味があるのは、新幹線と在来線との特急料金乗継割引制度だが、開業時の旅規には規定されなかった。実施されたのは、翌年11月「ひかり」が東京・新大阪間3時間10分、「こだま」が4時間にスピードアップされ、特急料金を従来のそれぞれB、C料金からA、B料金への値上げしたときである。須田氏は「須田寛の鉄道ばなし」(2012年3月、JTBパブリッシング)で、「A料金への移行で値上げになりますから、接続する在来線を半額にしたということですね。」と述べている。

*1:1972年9月8日北進まで延伸開業、83年10月23日全線廃止

*2:のち国鉄旅客局長、JR東海社長・会長などを歴任

回数定期乗車券と定期回数乗車券

9月4日の記事に追記したように、旅規の回数定期乗車券の規定は不十分なので、自動車線共通乗車規則(以下、共通乗車規則)を調べてみた。共通乗車規則が制定されたのは、昭和33(1958)年4月1日(3月12日付国鉄公示第78号)*1で、別表に岩手中央バスの盛岡・陸前高田間など13社局12区間が記載された。共通乗車旅客の範囲は、普通乗車券と回数乗車券がほとんどで、陸前乗合自動車の築館町・石越間だけ、定期乗車券が含まれていた。
旅規に回数定期乗車券が規定された昭和41(1966)年12月26日施行の改定(12月23日付公示第824号)時に、宮城バス陸前古川・仙台間が共通乗車規則別表に追加され(12月23日付公示第826号)、旅客の範囲は

陸前古川・大衡間と富谷・仙台間とにまたがる定期乗車券(自動車線通勤回数定期乗車券及び自動車線通学回数定期乗車券に限る。)を所持する旅客

と、回数定期乗車券が共通乗車の対象になった。なお、同日の公示第825号は、「自動車線通勤回数定期旅客運賃及び自動車線通学回数定期旅客運賃を次のように定める。」というものだが、「内容省略。ただし、関係の自動車営業所及び停車場に掲げる。」としか記載されておらず、どの程度の割引率だったかわからない。
国鉄バスの「回数定期乗車券」とバス標準約款の「定期回数乗車券」の違いも謎だったが、図書館であたった「国鉄自動車五十年史」(国鉄自動車局、1980年12月)に解決の手がかりとなる記述*2があった。

定期回数旅客運賃には「通勤」、「通学」の2種類があり、基本的な性格は定期旅客運賃と同一であるが、特に運賃算定の基礎である基準乗車回数(1箇月60回)を著しく上回って乗車すると認められる区間に限って毎日1往復に限定した定期回数乗車券(乗車回数52回)を事業者の任意で設定できることとしている。
国鉄バスでは、民営バスとの定期乗車券の共通乗車の精算等の必要性から、昭和41年12月古川線に採用したものを始めとして、現在全国7路線において「自動車線回数定期乗車券」として設定している。

要するに、運輸省のバス標準約款は、乗車回数を制限する「定期回数乗車券」を規定していたが、国鉄バスはこれを「回数定期乗車券」として共通乗車区間に設定したということらしい。乗車券の効力も様式も定期乗車券というよりも回数乗車券であり、「定期回数乗車券」というほうが正しそうだ。
9月4日の記事の追記で定期回数乗車券の画像を紹介したJRバス関東の「草津温泉長野原草津口」は、国鉄バスを引き継いだ路線だが、自動車線回数定期乗車券の共通乗車区間には含まれていなかった。乗車回数の制限だけが目的だろうから、裏面の回数チェック欄だけで十分だったのだ。
なお、「国鉄自動車五十年史」がいう1980年当時の7路線とは、事業者と路線のくくりがよくわからないが、おそらく次の区間だろう。

事業者区間設定日終了日
宮城交通陸前古川・仙台間1966/12/16
上田交通/千曲自動車上田・上和田間、大門落合・入大門間1970/02/161985/03/10
千曲自動車小諸・浅間山荘前間1967/02/271985/03/10
浅間橋・高峰温泉口間1969/07/011985/03/10
琴平参宮電鉄善通寺大通・高松間1967/05/011982/03/01
琴平・善通寺大通間1967/05/011982/03/01
川之江−仁尾−詫間善通寺通間1967/05/011982/03/01

追記(9月28日):1980年以降の共通乗車規則の変遷をたどってみたが、表の路線以外に自動車線回数定期乗車券の設定はなかった。また、表に追加した終了日のとおり、宮城交通との古川・仙台間を除いて分割民営化までに廃止されていた。
JRバス東北仙台・古川間は高速道路経由になり、普通運賃のほかには金券式回数券しかない。民営化以降廃止されたのだろう。なお、自動車線回数定期乗車券が旅規から削除されたのは、JR九州の自動車線が子会社に移管された2001年7月1日である。

*1:国鉄自動車五十年史」によると共通乗車そのものは、昭和24(1949)年12月20日遠州鉄道豊橋・浜松間で実施したのが始まり

*2:p234、第3章営業、第2節運賃、I旅客運賃、1乗合バス運賃、(4)現行運賃、(エ)定期回数旅客運賃

駅旅行センター

前記事で書いたように宮脇俊三氏と種村直樹氏の最長片道切符の発行箇所は、それぞれ(交)*1渋谷駅旅セと蒲田駅旅セである。旅行センターは、日本国有鉄道百年史(Vol.13、pp144-145)によると「販売促進体制の一環として、旅客の利便を増進し、かつ、積極的に旅行需要を開拓することを目的として」設けられた。

旅行需要の質的変化に伴い、「出発から帰着までの一貫した総合旅行商品」を同一の場所で提供する販売機構が必要となり、また駅業務の合理化・近代化に伴い営業拠点駅がブロック内の中小駅の営業活動を補完し、旅客需要の開発に必要な渉外活動の拠点としての機能をもつために、

国鉄国鉄の指定旅行業者(提携業者)とが、それぞれの専門的機能を生かしながら、一体的運営により、総合旅行商品の提供と広域的営業活動を行なう拠点として、旅行センターを開設することとなり、その第1号として、昭和43年10月*2名古屋駅に旅行センターを開設したのである。

昭和43年11月22日付国鉄公示第443号は、乗車券類委託販売規則の一部改正の公示である。

乗車券類委託販売規則(昭和29年9月日本国有鉄道公示第262号)の一部を次のように改正し、昭和43年10月1日から適用する。
 昭和43年11月22日
 日本国有鉄道総裁 石田 禮助
 別表第1株式会社日本交通公社の部日本交通公社名古屋駅内営業所の行を次のように改める*3

日本交通公社名古屋駅旅行センター名古屋駅名古屋駅各種乗車券類(ただし、定期乗車券及び定期手回り品切符を除く。)
日本交通公社名古屋駅内営業所名古屋駅名古屋駅定期乗車券及び定期手回り品切符

と、交通公社名古屋駅構内営業所の機能を分離して、名古屋駅旅行センターが設置されたようだ。

国鉄百年史によると、旅行センターは、A、B、Cの3タイプがあった。Aは大都市および地方の主要都市の拠点駅に設置され、国鉄の乗車券類・宿泊券・船車券等の発売業務は提携業者が行ない、Bは、地方の主要都市の拠点駅に設置され、国鉄の乗車券類の発売業務は国鉄が、宿泊券・船車券国鉄一部の乗車券類の発売業務は提携業者が行なった。Cは、「営業体制近代化による中小駅の簡素化に関連して整備されてきたため、旅行業者との提携は行なわず、もっぱら、国鉄職員による渉外活動を行な」った。

なぜ渋谷駅と蒲田駅の旅行センターの所属が交通公社と国鉄に分かれていたのか疑問だったが、これで解決した。交通公社渋谷駅旅行センターはタイプAとして設置され、国鉄が乗車券の発行を行った蒲田駅旅行センターは、おそらく鶴見駅と同じCタイプだったのだろう。前記事で植村氏の最長片道切符が旅客営業取扱基準規程の第27条「駅長において特に必要と認めたとき」を適用して発行されたと書いたのは間違いだった。

昭和48(1973)年3月末までにAタイプは名古屋駅など57か所、Bは酒田駅など6か所、Cは鶴見駅など109か所に設置された。乗車券類委託販売規則の改正公示によると、名古屋駅以降のAタイプ旅行センター設置駅は次のとおりである。

設置日提携業者
1969/04/01日本交通公社京都駅
日本旅行三ノ宮駅
1969/05/01日本交通公社広島駅
日本旅行下関駅
1969/07/01日本交通公社新潟駅
1969/09/25日本交通公社東京駅
日本交通公社新宿駅
1969/12/10日本旅行吉祥寺駅
1970/03/15日本交通公社大阪駅
1970/04/01日本旅行岐阜駅
1970/04/05日本旅行上野駅
日本交通公社横浜駅
1970/06/01日本交通公社水戸駅
1970/06/16日本交通公社博多駅
1970/07/01日本旅行豊橋駅
1970/08/01日本旅行長岡駅
1970/11/15日本旅行青森駅
1970/12/20日本旅行山形駅
日本旅行大宮駅
1971/01/22日本交通公社札幌駅
提携業者は交通公社と日本旅行とに二分されている。これ以降の設置日と設置箇所は、官報に掲載された乗車券類委託販売規則の改正公示が「内容省略。鉄道公報参照」で、未確認である。

会計監査院の昭和58年度決算検査報告に興味深い記載があった。

札幌駅ほか23駅の日本国有鉄道(以下「国鉄」という。)の旅行センターにおいて、国鉄職員の営業活動による乗車券類を提携業者の旅行センターに発売させ、これに係る委託発売手数料約2億6153万円を国鉄から提携業者に支払っており、不経済となっていた。

23駅は、札幌、山形、新潟、長岡、水戸、千葉、小山、長野、浜松、京都、大阪、三ノ宮、姫路、天王寺、和歌山、岡山、福山、広島、下関、呉、徳山、岩国、小倉、博多である。上表で示した初期の旅行センター設置駅がほとんど含まれている。

報告書には、

 このような事態を生じたのは、国鉄では47年に定めた「旅行センターの設置等について」(昭和47年旅営第400号通達)により、国鉄の旅行センターで乗車券類の発売を行わず、これを提携業者の旅行センターにゆだねることとしていたのを、51年に定めた「旅行センターの業務の運営等について」(昭和51年旅営第417号通達)により国鉄の旅行センターでも乗車券類を発売できることとした*4が、国鉄の旅行センターに常備する乗車券類の範囲に関する取扱い及び船車券等とあわせて乗車券類の申込みを受けた場合の取扱いを明確にしていなかったこと、各鉄道管理局に対する本社の指導が十分でなかったことなどによるものと認められる。

とある。

日本国有鉄道年表というウェブページの昭和62年2月(鉄道編)に、もう一つ興味ある記事があった。

国鉄では、全国主要八駅の旅行センターを4月1日以降、2段階に分けて直営化することで、JTB側と合意。 2/26
札幌・東京・横浜・大阪・高松・博多の6駅は、3月31日仙台・名古屋両駅は5月31日で共同運営を取止め。

民営化によって、旅行センターはJR東日本のビュープラザ、JR西日本のTisなどに変わった。国鉄監修「JTB時刻表」に代って、弘済出版社(現在の交通新聞社)発行の時刻表が「JR時刻表」となるなど、国鉄JTBの蜜月は民営化で終了した。

*1:○に交

*2:10月1日、よんさんとうの日

*3:各行の項目は左から、案内所名、所在地、所属駅名、発売する乗車券類

*4:昭和53(1978)年の宮脇氏の最長片道切符は、国鉄の渋谷駅旅行センターで発券できたことになる

岩泉線廃止

年度末の3月31日。今年は消費税増税による運賃改定もあり、デスクトップ鉄サイトのコンテンツには更新を要するものが多い。4月1日の岩泉線廃止に関連して、町村名と駅名の関係(町村代表駅)及び英語ページのRailway NewsRailways of Japanを更新した。
岩泉線は、2010年7月31日土砂崩れによる脱線事故以降全線運休となり、災害から復旧しないまま廃止となった。古くは士幌線糠平・十勝三股間、近年では高千穂鉄道同様の運休のまま廃止になったケースである。
1970年代前半、岩手県には次々と国鉄新線が開業した。

1970/03/01 盛線 盛−綾里 三陸鉄道南リアス線
1972/02/06 岩泉線 浅内−岩泉
1972/02/27 宮古 宮古−田老 三陸鉄道北リアス線
1973/07/01 盛線 綾里−吉浜 三陸鉄道南リアス線
1975/07/25 久慈線 久慈−普代 三陸鉄道北リアス線

これらは、大正11年改正鉄道敷設法の予定路線

六 岩手県久慈ヨリ小本ヲ経テ宮古ニ至ル鉄道
七 岩手県山田ヨリ釜石ヲ経テ大船渡ニ至ル鉄道
八 岩手県小鳥谷ヨリ葛巻ヲ経テ栗野附近ニ至ル鉄道及落合附近ヨリ分岐シテ茂市ニ至ル鉄道

の一部であり、国鉄が赤字に転落した以降も、同法に基づき鉄道建設公団により建設が進められていたのである。岩泉線は、茂市・浅内間*1の小本線を岩泉まで7.4キロ延伸し、岩泉線と改称した。本来の終着駅小本*2を線名から外したのは、この時点でさらなる延伸をあきらめたということか。
日本国有鉄道経営再建促進特別措置法により盛線、宮古線と久慈線は第1次廃止対象特定地方交通線に指定されたが、1984年4月1日地元が設立した第三セクター三陸鉄道に移管され、同時に建設中の吉浜・釜石間、田老・普代間が開業し全通に至った。東日本大震災の被害を受けた三陸鉄道は、震災の5日後には陸中野田・久慈間の運転を再開、その後も復旧区間を徐々に伸ばし、4月5日南リアス線、6日北リアス線の全線で運転を再開する。
岩泉線も、第2次廃止対象特定地方交通線に指定されるはずだったが、代替道路未整備を理由に廃止対象から外れ、JR東日本に承継された。2008年度「鉄道統計年報」によると岩泉線の乗客数はJR以外も含めた全国の路線で最低とのことであり(TETSUDO.COM)、廃線もやむをえないが、JR東日本が承継した岩泉線は、赤字のため国からの費用補填を受け復旧工事を行った三陸鉄道と明暗を分けたともいえる。

*1:「落合附近ヨリ分岐シテ茂市ニ至ル鉄道」に相当

*2:「栗野附近」がどこか不明だが、「日本国有鉄道百年史」第7巻の路線図では小本となっている