新幹線開業の国鉄公示

50年前の今日華々しくデビューした東海道新幹線だが、国鉄公示は簡単なものだった。
新線開業時の国鉄公示は、日本国有鉄道線路名称の改正公示と運輸営業の開始と駅設置の公示がセットになっていた。新幹線開業6日後の10月7日白糠・上茶路間が開業した白糠線*1は、昭和39(1964)年9月30日付国鉄公示第460号で

 日本国有鉄道線路名称(昭和24年6月日本国有鉄道公示第17号)の一部を次のように改正し、昭和39年10月7日から施行する。
 根室線の部池北線の項の次に次の1項を加える。
 白糠線(白糠上茶路間)

と線路名称の改正が、第461号で

 昭和39年10月7日から根室本線白糠停車場から上茶路停車場に至る鉄道において、次の各号により運輸営業を開始する。

と旅客運輸営業の開始(上白糖、茶路、縫別、上茶路駅の設置を含む)が公示された。
ところが新幹線については、9月1日付の日本国有鉄道公示第392号で

 東海道本線東京・新大阪間増設線(新幹線)の完成に伴い、停車場の設置その他を、次のように定め、昭和39年10月1日から施行する。

と、新横浜、岐阜羽島、新大阪の3駅の設置が公示されただけである。新幹線は東海道本線の増設線として位置付けられたため、国鉄線路名称の改正も、運輸営業の開始も公示されなかった。3月15日の記事で書いたように、山陽新幹線岡山開業時の1972年3月15日、東海道本線が「東京・神戸(新神戸)」間に山陽本線が「神戸(新神戸)・門司間」となり、国鉄線路名称に新幹線の影が初めて現れた。
新幹線開業に伴う旅規改定は9月7日付第396号で公示されたが、ここでも増設線として従来の体系の中に位置づけられた。新幹線開業当時国鉄営業局総務課長補佐だった須田寛*2は「東海道新幹線」(2000年8月、JTBキャンブックス)で

昭和39年10月の開通時の東海道新幹線の法律上、又、営業上の位置付けは東海道(在来)線の複々線化であり、同時に在来線との緩急分離による特急列車専用線ということであった。工事認可も東海道線の線路増設として受けており、東海道線の抜本的輸送力増強をはかるためにはこの考え方に立って両線を用途別にかつ円滑に使い分けていく必要があった。このため新幹線については、(1)運賃(基礎となる営業キロ)は在来線と同一とし営業制度も原則として在来線の例による、(2)その高速性、運行コスト等を考えて在来線よりやや割高の新幹線特急料金を設定する、ことが基本となった。このため運送約款も特別なものを作らず、この考え方が在来の約款の一部変更で織り込まれたのである。

と解説している。
旅規改正の内容は旅規改訂履歴1958-1987(日付順)の1964年10月1日の項のとおりだが、東京・小田原間と名古屋・米原間の選択乗車が設定され、その後の新幹線の延伸開業時に新在別線区間を選択乗車区間とする先例となった。しかし新幹線と在来線−同一路線扱いの虚構と矛盾で指摘しているように、新在別線通過型の選択乗車区間を設定する必要はなかった。
約款の共通化によって意味があるのは、新幹線と在来線との特急料金乗継割引制度だが、開業時の旅規には規定されなかった。実施されたのは、翌年11月「ひかり」が東京・新大阪間3時間10分、「こだま」が4時間にスピードアップされ、特急料金を従来のそれぞれB、C料金からA、B料金への値上げしたときである。須田氏は「須田寛の鉄道ばなし」(2012年3月、JTBパブリッシング)で、「A料金への移行で値上げになりますから、接続する在来線を半額にしたということですね。」と述べている。

*1:1972年9月8日北進まで延伸開業、83年10月23日全線廃止

*2:のち国鉄旅客局長、JR東海社長・会長などを歴任