鉄道忌避伝説の謎

鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町 (歴史文化ライブラリー)青木栄一著「鉄道忌避伝説の謎―汽車が来た町、来なかった町」(吉川弘文館・歴史文化ライブラリー)を読んだ。

東海道線岡崎駅が市の中心部を避け、中央線が中野から立川まで直線ルートを取ったのは、東海道甲州街道の宿場町が鉄道の通過に反対したためだという話は、通説となっている。しかし青木氏は本書で、鉄道忌避が伝説であること、これらのルート選定が、鉄道反対運動によるものではなく鉄道側の理由−市街地の通過や連続勾配・トンネル・架橋などを回避した結果―だったと論証している。小中学校の社会科の授業で教えられて、事実と信じていたのは、まったくの不覚であった。

鉄道反対運動が皆無だったわけではない。日本鉄道が貨物ターミナルを秋葉原に設置し、上野・秋葉原間の延伸を行ったときは、市街地を通過するので地元の下谷区などから反対された。しかし、将来、官鉄の新橋に結ぶときに高架にするということで、認めさせたらしい。しかし、宿場町や水運業者の反対で鉄道がルートを変更したという例は検証されていないという。

青木氏が初めて、鉄道忌避伝説に対する疑問を発表したのは、1980年の交通史研究学会であったという。思い立って原田勝正氏との共著「日本の鉄道−100年の歩みから」(三省堂、1973年2月)を調べたら、「鉄道への反対・忌避」という項に次の記述があった。

またのちには、東海道線の延長にともなって江尻(現在の清水市)・豊橋などで駅の位置の変更、水田の排水問題などから反対運動がおこった。また、藤沢・岡崎などでは、宿場における反対がつよかったといわれ、これらの駅は市街地からはなれた地点に設けられたものが多い。・・・

この項は原田氏の執筆した項だが、青木氏が鉄道忌避伝説に対する疑問を発表した7年前のから、やはり岡崎駅の立地と宿場町の反対運動との関連について書いている。しかし断定はしていないのはさすがというべきだろう。

本書では、「伝説」が定着していった過程をたどっている。大正末以降全国各地で編纂されるようになった地方史誌類に、史料による立証なしに伝説が記述され、各地の小中学校の社会科副読本にも記載され、定着していった。1990年代になってからは、著者の活動が浸透したためか、これが改まったという。現在は、小中学校で「鉄道忌避伝説」は教えられていないようである。

ところが浅井建爾「鉄道の歴史がわかる事典」(日本実業出版社)は、2004年8月の出版にもかかわらず、「鉄道の乗り入れを拒んだためさびれた町」として、萩などの例が記述しており、青木氏も本書でやり玉にあげている。ところが、同書には次のような記述もあった。

岡崎駅が市街地のはずれに設置されたのは、岡崎が鉄道の乗り入れを拒否したからだといわれているが、むしろ鉄道の誘致運動によって、市街地の近くまで引き寄せることができたと考えるのが自然だろう。・・・

これに続く記述で、中央線の直線ルートを甲州街道の宿場町の反対運動のせいにしていて、まったく首尾一貫していないのだが。